RE 豆腐開け、冷凍シメジ・ネギ散らし 生姜に醤油、水かけチン(´∇`)
57577でレシピ、いいですね。
この世の中には自炊と呼べる範囲内で超かんたんな料理ってありますよね。この湯豆腐もそうです。しめじ、葱、生姜、どれも最初から加工されてるやつですよ?カットしめじは冷凍して、冷凍ネギ買ってきて、ショウガなんて生姜チューブでいいじゃないすか。ほんとほんと。
この感覚って、簡単なレシピ以外も作れるからこその境地だと思う。
私はここまで手早く出来るレシピは持ってないですけど、作る負担と食べて貰って喜ばれた時の嬉しさを知って、食との関わりは変わりました。
レゴとか自作PCとも似て、組み合わせでいけるのでしょうねー。
RE わたくしに最後に残る感情はくたびれた、かもしれないなつて
わたくしに最後に残る感情はくたびれた、かもしれないなつて
— mymhnd (@mymhnd) October 23, 2019
とても美しいと感じました。
共感できるのは、リアリティがあるからだと思います。
私は「面白かった」とか「残念なこともあったけど、ベストは尽くした(※納得と諦め)」とか、別の何かかもしれません。でも「今日」の連続の向こうが、あるていど見えてくる気がする時ってあるよなって 形で共感しています。
長い旅をして、聞こえのいい「意義」とか建前を出すのではなくて、「くたびれた」を正直に出せる点が、そのあり方が美しいと感じました。
RE 建物に陽はぼんやりと明るみを 少し冷たい光を当てる
理屈で言えば、太陽の光が当たる部分は当たった分だけ温まってるはずなんですよね。北極だろうが火星だろうが。
でもそうじゃなくて、春夏秋冬の光と温もりを感じ取ると、たしかに「少し冷たい光」ってあると思う。それは人工の光とどう違うのかとか、月の光とどう違うのかを説明するよりも、感じ取るものなのでしょう。
ぼんさんのblog本文に書かれた部分は、感受性や表現したいことの解像度が上がった結果かもしれないなあと思わされました。
RE 日中にようやくヌルく温かく 最高気温二十度辺り
RE バーナーで炙るみたいに焼き焦がし 木には縮れた葉が組み上がる
この発想は無かった。
ぼんさんの作品に触れて思うことは、「意味」から自由なんですよね。重力があるけど、まるで重力が無いかのように振る舞えるというか。ぼんさんは深い教養の持ち主です。枯れ葉の意味も理解されているでしょう。その上で、その「意味」を横に置いて違う視点を持つこともできる。強い。
焼きすぎて炙りすぎてカラッカラの葉っぱありますよね。かつ「組み上がる」という表現も好きです。なんだかレゴブロックみたいで。
RE 街角のポストはそこに立っているたとえぱ僕がいなくなっても
街角のポストはそこに立っているたとえぱ僕がいなくなっても #短歌
— 朝倉冴希@短歌 (@dassan34) October 31, 2019
この作品好きです。
主体の僕の感情が、フラットでも、高揚してても、沈んでいても成立しません?
読み手への解釈の幅を持たせてくれている点が好き。
「たとえば僕がいなくなっても」って言葉に惹かれます。
僕の場合、「自分が生まれる前から世界が存在し、自分がいなくなっても世界が存在し続ける」ことを、大切な存在との離別等を経て、実感しました。生きる方向性が違うって別れもあれば、命を見送る別れもあります。
連想するのは、自分がこんな悲しいのに、こんなピンチなのに、なんで周囲は・世界は平穏なんだ! って状況というか八つ当たりみたいな気持ちも、私には共通するように思えるのです。
どちらも、世界と歩調が合わないはずだから。
「僕」がなぜ、足を止めてポストに対してそう感じたのかは分かりません。想像の余地を与えてくれている。理由なんてないのかもしれない、幸福なのかもしれない、何かあったのかもしれない。 でも、僕らには何でもないただのポストがポストではなくなる時があるんですよね。
RE 初期のミスチルばっか聴かないで 空にギターを引っかけて行く
大きな夢を空に向け解き放つ。それは多くの人が出来ることではありません。ギターというのはある人にとっては実現すべき夢のシンボルで、またある人にとっては未練のそれになるのでしょう。
この一文が心に残ります。
自分の場合は80年代・90年代・2000年代くらいの作品移行は、数年に一回ハマるアーティストがいるかどうかで来てますね。ミスチルは、古いベスト盤の頃が好きです。
最近だと、ヨルシカに傾倒しています。ヨルシカいいよヨルシカ。
声質・歌唱力・楽曲・歌詞・世界観、全部好き。
さて、短歌の話に戻ると、「空にギターを引っかけて行く」って部分がぼんさんワールドですね。私は「空の光はすごく遠くの星から届いた光」って事実・説明に無意識に縛られているけど、ぼんさんは違う。既成概念から自由な視点が涼やかで羨ましい。