短歌読みます、うたあつめ。

拝見した短歌への、返歌や感想を書く、公開ファンレターです。

RE かけてある長袖を着て、また外へ 助走から跳ぶ三歩で君へ(( ゚Д゚)

tanka.sblo.jp

今日の短歌はですね、練り練りするうちにありきたりな恋歌から段々【陸上競技三段跳の短歌に変わって行ったという、愉快な経緯がありまして。そう、気づいたらあんまり相手のこと想ってない感じなんですよね(๑• ̀д•́ )✧+°ドヤッ

アジカンの『君の街まで』を思えば、三十一文字の三段跳びで君へ届くなら関係性は近いし、想いもあるなあと思うのでした。

 

私の受け止めはさておき、この短歌が私にはリアルに感じられます。

外出着に袖を通す、三段跳びのように、だんだん「君の前でそう振る舞いたい私」に整えていく。それはいつものコーヒーかもしれないし、いつもの経路で電車に乗ることかもしれない。スマホでネットニュース読むことかもしれない。

半ば無意識にやっているルーティンワークで自分を起動させることと、この短歌の三段跳びが似てるように思えるのでした。

 

RE その子へは眩い路の距離を経て 心震わす何かはそこに

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「あの頃」か「人の成長過程の一時期」にある、まっさらな新雪みたいな季節。不思議なことだらけで、目線も低くて、新しい挑戦は冒険ばかりだった。

そのことを直接「まばゆい」と表現してもいいかもしれないけれど、この作品では「眩い道の距離」の向こう側と詠んでいる。

そして「あの頃、たしかに心震えたんだ」って、「そんな季節があったんだ」って、確認しているかのように、「何かはそこに」と繋がる。

 

その人が成熟していくこと、精神年齢みたいなものって人それぞれで、感動の沸点とか温度も人それぞれで、センサーからして全員違います。「何かはそこに」に相当する何かと接した時に僕らは、「ああ、やってるやってる」と見守ることも出来るし、「あんな頃が、あったよなあ」と振り返ることも出来ます。

 

中にはズキンて胸が痛むこともあるでしょう。

これだけの鑑賞の余地を持たせてあるのが魅力ですね。

 

日常で気づけば誰のそばにもある風景を通して、人生を切り取ったと僕は感じました。

アートで人生扱えば、文学だと思うんですよね。小説であれ詩歌であれ音楽であれ。

 

 

RE レイサムとセリアが抜けたロイヤルを レヴィオンギミック搭載で殺る(#゚Д゚)ゴルァ!!

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短歌・詩歌は暗号というか、言語・意味の圧縮も出来るのだなあと思わされました。

ぼんさんがシャドバをしていない方や、私みたいにアカウントは持ってるけど弱い人・さぼってる人向けに、テキストを書いてくれています。

短歌やらないけどシャドバやってる方なら、そのテキストを読まなくても短歌のみで通じてしまうから凄いなと。

 

極端な話し、「ね?」って指差すことで共有できる事柄って多くて、でもそうできないから写真取ってインスタで共有したりするわけですよね。だから言葉使うわけだし。

 

そんなことを思わされる、ぼんさんの600本目の作品なのでした。

 

RE いいですか「上書き保存」いいですね「上書き保存」きみのことだよ

 

これ、好きです。

相手に受け入れて貰えるか自信が持てないと、だから相手との関係性が分からないと重くなりすぎてしまうから言いにくい。

逆に、言われる側なら、そんなに重く感じないかもしれない。もちろん、関係性があって、なんですけど。

人生観、恋愛観、対人関係等を自分はどうしているのか、気づかせてくれる作品です、私にとって。

 

鏡を見て、「あ、猫背気味?」って姿勢を正すことと似て。

 

RE ペヤングを三皿に分け食べてきた お店の棚でやや立ち止まり

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ペヤング美味いですねえ。「中毒性の塊」とか「DNAに刻まれてる」と言いたい旨さです。お湯を捨てる時の、お台所のシンクの「ベッコン」て音もセットで醍醐味といいますか。昭和50年3月発売だそうです。

チキンラーメンが昭和33年8月25日ですから、17年くらい間隔があって驚いています。お湯を切るって発想がなかったのかな?

 

「いつ」食べてきたかを歌の中では詠まれていないから、「今」なのかなって、縁日みたいな場をイメージしてしまいました。なるほど、家族の思い出・歴史みたいなものも、身近な味に紐づくってありますよね。

ペヤングではないけど、私もそういうこと、時々スーパーで、あります。

RE こころから好きだったはずの恋人が徐々に風化しゆく日曜日

連作ではないのですが、TLを拝読して、4首並べてみました。

まったく別々の作品のはずだけど、こうしてみると一つの波が生まれる気がするのです。コントラストの強い夏の歌から始まって、潮時かなってなって、それでも追いかけてみるって歌があって、風化していく日曜日の歌。

 

カラフルだったりパワフルだったりする側面と、倦怠感というか虚しさというか、冷めていく心の両方が歌に現れますね。どちらか片方ではない点にリアリズムを感じます。

 

恋愛に対する熱量とか生命力という点で、「追いかけてみる」一首は眩しくも感じられました。実際は、追う側も追われる側も大変なのでしょうけれど、それでも。

RE 枯れるほど水を与える僕はたぶんあなたに枯れてほしいのだろう

依存とかイネーブリングとか、色々連想しながら鑑賞しました。「枯れるほど水を与えた僕は」ではなく、「与える僕は」である点も興味深いです。意図せずに枯れるという出来事を招き寄せてしまって、振り返って気づいたのではないですよね。

 

きちんと客観視出来ている。出来ているけど、何かがズレている。「枯れるほど水を与える」ことは、いつからそうなのか。かつては必要な量だったのか、それともエスカレートしてしまっているのか。枯れてほしいのだろうという結論は真意なのか、それとも、客観視から推測を積み上げた結果なのだろうか。 

 

  • 主体は客観視が得意
  • 主体にあなたに対する悪意や害意は感じられない
  • どちらかというと知的な側に振り切れていて、感情が知性の影に隠れている気がする

そんな風に読んだのですが、そうじゃなくて「気持ち・心・感情」も言葉通りだとして読むと、かなりおっかない作品ですよね。愛してたけど、今は習慣化した行動を反復しているだけで、もう愛してないって作品でもあるから。

「これだけ水あげたら枯れる」「いっそ枯れてくれないか」を、親しい相手との関係性に重ねると、私にはそんな風に感じられるのです。

 

いずれにせよ、ままならない心を言葉で捕まえていて素敵です。