RE オジサンはマンガがダメなわけじゃない 集中力が持たないだけだ(๑• ̀д•́ )✧+°ドヤッ
集中力のコントロールは確かに難しいけど、あれって苦手な人は世代関係なくいる気がするんだよなあ。
漫画といえば、私の親世代になると『サザエさん』『いじわるばあさん』を読む人達になります。70↑ですから。私は『ドラえもん』から始まり、20代の後半に『ハチミツとクローバー』があって、今も『3月のライオン』を楽しみにしていたりする。『ブラックラグーン』も好き。『ベルセルク』は長くて挫折。
いわゆるジャンプ黄金期をリアルタイムで知っている世代になるのかなあ。
先日、久しぶりに『幽☆遊☆白書』を読み直してみました。あれは、オリジナルを読むより、読者が熱く語る作品の魅力を聴いた方が、ブーストされてて楽しい気がする。
そして『ジョジョ』。『バオー来訪者』も含めて、ジョジョ的な世界について語ると、熱いですよね。ぼんさんと、ジョジョの話をまだしてなかった気がする。
楽しみとっておこう。
RE 前方に見知らぬ人が何名か 交差点から渡る景色は
一期一会未満というか、袖触れ合わなかった感じなのかな。ぼんさんはそうは表現されていないけれど、まったく知らないし興味もないけれど、お互いに一個しかない命もって、何か背負ってそこにいるんだってことは意識しています。自分のことに夢中になると、周囲の人を脇役みたいに感じるときがあるかもしれないけど、そういうの苦手で。
別れた恋人でもいいし、決別した友達でもいい。昔の会社の仲間とか。
「今はもう」見知らぬ人、として受け取ると、すごく切なくなりません、この作品?
RE 紅色のコンペイトウが旗を揚げ 街路樹下に集まっている
コンペイトウがはらはらと散ると、散った花びらがポテチになるんですよね?
やべえ、ポテチ食べたい。ポテチは炭水化物を油で揚げて、お塩かけてあるわけで、中毒性の塊みたいな感じしませんか。美味しいものはだいたい、糖質か脂質を含んでいる。
でも考えてみてください。これじゃコンペイトウが「散らばった」のか「集まった」のか分からなくないですか?(°Д°≡°Д°)?
作歌の過程も伺えて興味深いです。
「集まった」を明確にするために「旗」を用意する。たしかに、旗ってわかりやすいですね。それにしても、大きなコンペイトウだなあ……。
RE 不機嫌なぼくらのせいで薄雲る銀の鏡よ美しくあれ
不機嫌なぼくらのせいで薄雲る銀の鏡よ美しくあれ #短歌
— だっさん/朝倉冴希@短歌 (@dassan34) August 30, 2019
TLを開いて、この作品が飛び込んできました。
詩歌や言葉って、だからいいよねって思います。
僕らは、主体達が「不機嫌」であることを良い悪いと評価する必要ないですよね。もちろん評価することも含めて自由だけどしない自由もある。
色んなことがあってこういう状況・情景になった瞬間がたしかにあったけど、鏡も主体も関係性も全て含めて「美しくあれ」と受け止める余地を与えてくれて、力強い歌だと感じました。
僕らは不機嫌でここで銀の鏡を薄雲らせる状態だけど――だからこそ
という願い・祈りに思えました。
そして、「鏡」に関して。少し深読みしすぎかもしれないのですけれど……。
因果関係でいくと、物理的で手が触れることのできる何かが、おそらく湿気で曇っていくことがらは、主体が不機嫌であることと関係ないはずです。でも関係ある時もあります。時間です。そこに立ち止まって過ごしたのはなぜかの理由が不機嫌な場合。
鏡というより、車とかお店の窓が曇る状況かなあと思いました。
でも、詩歌における言葉って説明以外の力、想像力を刺激するトリガーでもあるから、「薄雲る鏡」は、手で触れることのできる物体ではなく、鏡を連想させる雲であってもいいですよね。
曇天だから不機嫌なことはあっても、不機嫌だから曇っていることは客観的には起きません。でも、「不機嫌な僕ら」は、周囲の銀の鏡が薄雲って行くことで時間の流れを感じ、きっと苛立ちも覚えているでしょう。ほんとはそんな時間過ごしたくなかったかもしれないけど、譲れないことが衝突したのかもしれない。
ああ、僕らが不機嫌だから「雲まで鏡みたいになってる」と、主観的には感じることだってありますよね。手で触れることのできる鏡と、手が届かない鏡に、二重に囲まれた中で、不機嫌に囚われている主体達。
そんなイメージを受け取ったところで「美しくあれ」が刺さるのでした。
RE 暗闇に羽を細かくふるわせて そこには僕の存在がある
「そこには僕の存在がある」
そうなんですよね。姿は見えなくても、音から逆算してイメージができる。
TVをミュートするみたいに、懸命に羽を震わせているのに、そこに存在があるのに、音がしないことをイメージすると、かなり孤独です。
拒絶というより、断絶してしまうイメージ。
とすると、主体が立てている音は、幾つかの目的があり、存在証明でもあって、存在を証明することは何らかの形で世界と「繋がる」ことでもあるのでしょうね。
RE テレビには以前わたしが憧れた 人がひとつの世界をうつす
そうそう。ぼんさんみたいにプロジェクターを導入したら、4Kテレビ導入って。TVの仕組み自体は変化していますけど、白黒TVが新しかった頃から現代に至るまで、TV・動画って需要がありますよねー。
さて、今回の作品は、下の句がミステリアスかつ万能型な感じしません?
575に足してあげれば、自動的に短歌にできそうな気がする。
憧れた人と町ですれ違う
憧れた人がTVに出てた
憧れの人と町ですれ違う
どれでもなくて、テレビの「向こう」で完結している点も印象的です。
RE 朝はすぐきてしまうから生ごみの水切りぐらいしっかりと泣く
朝はすぐきてしまうから生ごみの水切りぐらいしっかりと泣く
— 岩倉曰 (@wakuwakuiwaku) August 29, 2019
『 生 』 岩倉曰 #うたの日 #tanka https://t.co/bXsUrvx164
「泣く」というコマンドが欠落して久しいです。目にゴミが入っても赤くなるくらいで、なかなか泣くってないです。男性文化の抑圧って意味なら、もっと上の世代のはずだから、個性でしょう。かつて泣いていた少年が、泣くことから距離を置いたわけですね。
だからこそ、泣くって大事。泣ける時に、しっかり泣いておくの大事。それは大人になってもそうだし、幼い時に気が済むまで、声がかれるまで泣かせて貰えることって豊かなことだと私は思います。虐待とか暴力って意味ではなくて。
シンプルに、感情はすごく大事。かつ、身体感覚も大事ですよね。「悲しい」とか「泣きたい」は心だけど、「泣く」は肉体ないと出来ないことだから。僕らは、心とか思いとか理性とか肉体とかがバラバラ存在するわけじゃない。頭でっかちで、ちぐはぐになりがちなんだけど。
- 泣かざるを得ない状況でもリミットは容赦なくやってくること
- 「生ごみの水切りぐらい」という比喩の重奏性(複数の文脈で受け取れる)
この作品、とても好きです。そもそも、体の水分を絞りきるくらい泣く夜明けは切ないけど、それだけ泣いて切り替えられることは主体の武器ですね。本当に危ないと、泣く気力や抵抗力も失われると思うから、これだけ泣けるって、生命力でもある。
理不尽なことだらけだから泣きたい日もあるし、誰も泣かずに済む世界ならいいんだけど、人が集まればそうもいかない。だったら、しっかり泣く武器を持つって、安心して見ていられるなあと思わされました。