RE 不機嫌なぼくらのせいで薄雲る銀の鏡よ美しくあれ
不機嫌なぼくらのせいで薄雲る銀の鏡よ美しくあれ #短歌
— だっさん/朝倉冴希@短歌 (@dassan34) August 30, 2019
TLを開いて、この作品が飛び込んできました。
詩歌や言葉って、だからいいよねって思います。
僕らは、主体達が「不機嫌」であることを良い悪いと評価する必要ないですよね。もちろん評価することも含めて自由だけどしない自由もある。
色んなことがあってこういう状況・情景になった瞬間がたしかにあったけど、鏡も主体も関係性も全て含めて「美しくあれ」と受け止める余地を与えてくれて、力強い歌だと感じました。
僕らは不機嫌でここで銀の鏡を薄雲らせる状態だけど――だからこそ
という願い・祈りに思えました。
そして、「鏡」に関して。少し深読みしすぎかもしれないのですけれど……。
因果関係でいくと、物理的で手が触れることのできる何かが、おそらく湿気で曇っていくことがらは、主体が不機嫌であることと関係ないはずです。でも関係ある時もあります。時間です。そこに立ち止まって過ごしたのはなぜかの理由が不機嫌な場合。
鏡というより、車とかお店の窓が曇る状況かなあと思いました。
でも、詩歌における言葉って説明以外の力、想像力を刺激するトリガーでもあるから、「薄雲る鏡」は、手で触れることのできる物体ではなく、鏡を連想させる雲であってもいいですよね。
曇天だから不機嫌なことはあっても、不機嫌だから曇っていることは客観的には起きません。でも、「不機嫌な僕ら」は、周囲の銀の鏡が薄雲って行くことで時間の流れを感じ、きっと苛立ちも覚えているでしょう。ほんとはそんな時間過ごしたくなかったかもしれないけど、譲れないことが衝突したのかもしれない。
ああ、僕らが不機嫌だから「雲まで鏡みたいになってる」と、主観的には感じることだってありますよね。手で触れることのできる鏡と、手が届かない鏡に、二重に囲まれた中で、不機嫌に囚われている主体達。
そんなイメージを受け取ったところで「美しくあれ」が刺さるのでした。