RE シロハラの羽繕いする枝先で 「わたしもちょっと」風とまる朝
この作品に触れて気がついたのですけど、本来「性別」が存在しないはずの風に、私はなんとなく女性的なイメージを持っているみたいです。長い髪とかをイメージしたのかな。ギリシャ・ローマ神話的な女神かなにかで。
国産の「風神雷神」な方々に、「まてまて、袋持ってるから!」って、お叱りを受けそうですが、大丈夫、個人のイメージです。
作品に戻ると、シロハラが羽繕いしてますよね、せっせと。
「わたしもちょっと」って、おそらく自分を整えているであろう風という姿、それは鏡を見つけてネクタイ確認する男性でもぜんぜんいいはずなのに、私は女性的な様子に感じられるみたいです。
面白いのは、シロハラと並んで、あるいはシロハラの近くでみだしなみを整えている間は、風の仕事が止まっていることです。風は本業を一休みして、集中しているのかもしれないですね。
RE つんのめるようにしてこの平成の 節目を駈ける、けど大切に。
時代の変わり目ですね。
昭和生まれとしては、大正生まれの方の気持ちを想像しやすくなります。
時代の変わり目であり、一つのゴールでもあるなあと思って、「けど大切に」って言葉と接すると、マラソン等のゴールではなくバスケの「ふわっ」と決まるシュートの、静かな瞬間を連想しました。
案外、駆け抜けるのも、バッシュかもしれないですね。
10年って、つい最近です。でも、小学生が大学四年生になります。
30年も過ぎるとあっという間でした。一人の人間が成熟して自立するのに十分な時間です。
時代の変わり目と感じるのは私なわけですけど、なんだか「平成」自体をねぎらいたいし、「ラストスパート頑張れ」とバッシュ届けたくなるのでした。
RE 鉛色の雲の裏地に伏せる日を ぬれた指で拾い上げる空
2018年3月スタートで、300首突破したのですね。お疲れ様です。
空の質感って、光の強さが関係するのか、青空でも曇天でも、金属を思わせる名前がありますよね。「鉛色」もそうですし。でも、あくまでも色の名前であって、鉛色が鉛のように硬い必要はなくて、「裏地」に使うことも出来ますね。このあたりの表現の仕方が、印象的です。
ただ観察しているのではなく、「ぬれた指」が空に関わっていたりすることも、また。
RE 午前だけ部屋の窓から入る子は ベタな台詞を書き溜めている
金色の光が擬人化されていることを知らなければ、ファンタジックな作品に感じられるかもしれませんよね。ぼんさんのおうちの窓、午前だけ開いているのでなければ。
午前の光もそうですけど、西日はお手軽に逆光で黒つぶれを経験できますし、しんとしてどこまでも静かな空間で、なんでもないなにかを、オレンジ色に近い金色に染めていくときの厳かさも好きです。
「ベタな台詞」は、主体や私が、私達自身で私達自身の心に書き溜めるのですけれど、「トリガー」になった存在自体が「書き溜める」って視点、好きです。
RE 窓辺には日向があるよどこにでも 君が寝そべるそこにぼくはいる
海外では「窓辺女子」とか流行ってるのでしょうか……。
窓辺でくつろぐ猫を探したはずが。
なにはともあれ、窓辺の「日向」を見つけて味わい尽くす才能は、猫が抜きん出ていますね。彼らはだいたい、一年を通して一番過ごしやすい場所を見つける天才ですので、「よいせ」って猫をどかして、猫のいる場所を奪うという遊びを子どもの頃、覚えました。「仕方ない」って大人の対応してくれる日と、「今日はやだ。さすがにヒドイ」と抗議に来る日があるんです。
そんな関係性ではなく、もっと大人の、猫が幸せにしている様子をおひさまみたいな眼差しで見守る作品ですね。「窓辺」と「日向」が無くても、それは冬の夜で、猫が「そろそろおコタ出しませんか?」みたいな顔してるときでも、「君」が寝そべる場所があって、「君」がいて、「ぼく(主体)」がいたら、そこは『日向』なんだろうなと思わされたのでした。
RE この際は、いっそまるごと文明を 共有できる生きものたちと(`・ ω・ ´)ゞ
RE 呼んでみる焼ける頬に手を当てて そこにはない毛の塊を
ぼんさん、それはツンデレかもしれないし、照れ隠しかもしれないですね。
確かに歳を重ねると愛情表現しにくくなる面もあるけど、10代・20代の頃より自意識の檻と鎖から自由になったので、プラマイゼロな感じもありますよ。(個人の感想です)
「焼ける頬」は主体の頬のはずですけど、そこにはいない猫さんを強くイメージして、手のひらに猫さんの「頬」を焼けるくらい強く感じられた、という受け取りも出来なくはないかなあと思いました。
また、「そこにいる」から呼ぶわけですし、「いるはずなのにいない」から呼んで探すのですけど、「いないと分かってるけど、呼んでも届かないのも分かってるけど、でも呼ぶ」という心理も、たぶん僕らのご先祖が言葉を獲得したり、三十一文字のリズムが生まれる以前から、あった気持ちかもしれないなあと思うことでした。