RE 指先の鱗粉に我が息を吐き 解いた繭の上に降り立つ
「やー、今日のフィギュア凄かった」
「感動した」
「ネ申」
とか、ため息を漏らして終えるのではなくて、言葉にされたわけですね。
「繭の上に降り立つ」ことは、スケートリンクの比喩として受け止めることもできます。面白いのは、ぼんさんはフィギュアを観客として鑑賞して感動した。
そこから生まれたイメージは「主体」の指先に鱗粉があり、「解けた」のではなく「解いた」のですから、おそらく「私の繭」だから、主体が蝶のような何かに羽化したわけですよね。
羽化したばかりの命に満ち満ちた何かでなければ表現しにくかったのでしょう。
観客だったはずの作者から生まれた作品の主体は、フィギュアスケートのような場所に降り立っているし、しかも「自分の繭」なのだから、フィギュアスケート自体自前だったりします。言葉の力、イメージの自由さ、短歌ってこんなこともできるのですね。