RE 宝石は砕けても宝石であれこわれたきみを抱きしめている
宝石は砕けても宝石であれこわれたきみを抱きしめている
— 清水ここに (@shimizu_kokoni) 2018年10月23日
ダイヤモンドが砕けたとして、あるいは奪われてそこに無くなったとして、それでも、さっきまで確かにダイヤモンドがあったことを記憶しているよ。
ですとか
たしかに、今の「きみ」は宝石屋さんの店頭に並ぶ状態ではないかもしれないね。でも、砕けようがなんだろうが、「きみ」は宝石なんだよ。表層的な変化は「きみ」の根源的な部分に何も影響を与えないよ。
みたいな、強い「守りたい気持ち」を感じました。
でも、言葉とか短歌って不思議で「きみを抱きしめている」という作品の中の「主体」が、必ず二人称を想っていると決まるわけではありませんよね。
つまり心理学的な視点でいけば、「きみ」というワンクッションを置いて、客観視して少し距離を置いた「主体自身」への呼びかけと読むことも可能ですよね。もちろん、清水ここにさんはそんなこと意図なさっていないかもしれないけれど、短歌や詩歌の強みってここだと思うんです。
泣いたりしない。
うずくまったりしない。
でも、あ、宝石壊れてると主体が感じるくらい激しい何かがあったかもしれないです。だからこそ、「宝石であれ」という強い励ましが輝くと思うのです。
僕の中にも一つくらい、安いのでいいから宝石があるといいなあ。