RE 枯らしたと思った枝から芽吹いてた たくさん人を傷つけたけど
枯らしたと思った枝から芽吹いてた たくさん人を傷つけたけど
— 清水ここに (@shimizu_kokoni) 2018年6月6日
枯れちゃったかなと思いつつ、水をあげたり、日当たり気をつけたり、肥料をあげたり、世話をしつづけて、だんだん回復して新芽をつけてくれると、なんだか報われた気持になります。よく乗り越えたねと褒めてあげたくもなります。
象徴的なイメージ、あるいは比喩として、心の中の何かを「枯らしたと思った枝」と表現すること、理解できます。それは人間関係等の枝なのか、何かの可能性の枝なのか、それとも何かの想いなのか、様々な読み方ができそうです。
枯れてしまったかなと思うということは、何かについて諦めた・諦めかけたということでもありますよね。でも、おそらく時間が経過したら、芽吹いた。
ここで、わあ嬉しい、という回復や再生の歌にはならず、「たくさん人を傷つけたけど」という苦さのある下の句で受けている点に惹かれました。
枯れたと思った状態から芽吹くことは、一見不自然なことですよね。枯れ枝かと思っていたわけですから。だから芽吹いたこと自体で傷つけたのかもしれない。
あるいは、もうそのことは枯れ枝だからと、投げやりになったりして、人を傷つけたのかもしれない。
理由も事情も分からないけれど、そういう心の動きってあるでしょう。
不思議なリアリズムを感じます。
願わくば、主体が傷つけたと感じるほどに、周囲が傷ついてはいなくて、芽吹きを一緒に祝福してくれていたらいいなと思いました。
返歌
切り捨てた枝の中には根をはって零下も耐えて咲くヤツもいる
終わったと思った枝に結ばれた小さな手紙濡れて読めない
「あの頃は大変だった」いじられる 濃緑の葉をまとう私を