RE タンポポを最後に摘んだ日でわかる我が少女であった境目
君のこと思って塗ったつめなのに血豆呼ばわり酷い好きです#tanka #短歌 #恋は雨上がりのように
— lulu (@uta_lulu) 2018年5月4日
「血豆呼ばわり」されて帰ったとか、しばらく口きいてあげないとかではなく、それでも「好きです」が来るのがキュートな作品ですね。小さな子が「このくらい好き」と、両手を思いっきり広げて見せてくれますが、結局、僕らは大人になっても「どのように、どれくらい好きなのか」は、心や頭にあるもの100%を相手に伝えることは出来なくて、言葉を探すんですよね。
「君」は、照れ屋なのか、口下手なのか、彼女がオシャレしてることに気付いても、まだうまく言えないのかもしれませんね。でも、気づくだけ偉い。気づくの大事。
てんぷら粉買うためにだけ外に出てみたら天気がよくて口笛#tanka #短歌
— lulu (@uta_lulu) 2018年5月4日
あるあると頷いてしまいました。何か大切な用事がある日に、何もこんな日にってお天気なこともありますが、その逆で、特に用は無いけど、例えば洗濯物を取り込もうとして外を見たらめっちゃいい天気だったとか、不意打ちの好天ってありますよね。
「口笛」の使い方が、とても好きです。
タンポポを最後に摘んだ日でわかる我が少女であった境目#tanka #短歌 #うたの日
— lulu (@uta_lulu) 2018年5月4日
「タンポポ」出さなかった方です。というかうたの日は同じ日に2首は出せないんですね…(´・ω・`)
何を「境目」とするかがユニークだと感じました。秘密基地を作らなくなった日かもしれないし、一人で電車に乗れた日かもしれないし、自転車で隣町へ行けた日かもしれない。いつから大人になったかって、単純に年齢とか成人したとか、そういう要素の他にもありますよね。
少女から一気に大人になるわけではありませんが、「境目」ということから、そんなことを考えました。
これ、親戚のおばちゃんとかに、「タンポポ摘んでたあの子が、こんな立派になって」とか言われると、「あ、はい」みたいな、照れくさいような忘れて欲しいような気持ちにもなりませんか。私は、おむつ替えた系の親族に、頭上がりません……。
重くない程度の愛のまぶされた梅とおかかのおにぎりかじる#tanka #短歌
— lulu (@uta_lulu) 2018年5月8日
「重くない程度の愛の」という表現が、すごく好きです。「梅とおかかのおにぎり」に、「まぶされた」が綺麗に繋いでくれますし。
家族だから、愛の重さに慣れていて、重くないのかもしれない。
大切な人が、さりげなく用意してくれたから、重くないのかもしれない。
なぜ重くないのか考えるのも楽しいですし、声に出して読んで、音も綺麗で、魅力を感じました。
シンプルな塩味だけの玉子焼きもう食べ飽きたとは言えなくて#tanka #短歌
— lulu (@uta_lulu) 2018年5月8日
「言えなくて」きました! luluさんワールドな気がする。きっと、すごく気配りされる方なのでしょうね。
実家で、家族が作ってくれたなら、そもそも味に慣れていますし、「それ飽きた」とも言えますよね。だから、大切な人との歌なのかなって受け取りました。
「僕が作るよ」と、朝ごはんとか用意してくれるのかもしれない。作ってくれるのは嬉しいけど、好意は感謝するけど、他のものも食べたい日もある。でも、言うと、せっかく作ってくれる気持ちになってて、本人は彼氏頑張ってる気持ちかもしれないのに、言えない。あるいは、まだ、「あなたは好きだけど、それは今日はいい」と言えるほど、関係性が固まっていないのかもしれない。
理由は分からないけど、言えないこと、言えない時、あります。
返歌
君の爪あまり綺麗な色だからドキッとしたと知られたくない
重すぎる愛のこもったバスケット執事を連れた君は何者
家事やると約束はした僕だけど検索すれば肉焼けますか
今日からはお兄さんだと思ってた小1の春タンポポの道