短歌読みます、うたあつめ。

拝見した短歌への、返歌や感想を書く、公開ファンレターです。

RE ろうそくの火はやさしいねかなしいね影絵であれば抱き合えるのに

「やさしいねかなしいね」と「抱き合えるのに」と、火と影絵のイメージの重ね方がすごく美しい。

私は 「ろうそくの火」と、作品のトーン・空気感から、『赤い蝋燭と人魚』を連想しました。『赤い蝋燭と人魚』へのアンサーが、約100年経って届いたことを目撃したような気持ちでいます。

「赤い蝋燭」自体が悲しみや抗議や恨みが含まれているけれど、人と異なる異形で、そもそも抱き合う相手・分かり合える相手が与えられていない、作中の売られていく人魚に対して刺さる気がするのです。

「人になりたいとも、人魚の同胞を下さいとも言わないから、せめて影絵になれたらいいなあ」って。

そんな風に『赤い蝋燭と人魚』を経由して戻ってくると、人魚はいないけど、限りなく異形に近い孤立や孤独はいくらでも存在するから、影絵を想って立ち止まる間、僕らは小川未明が描いた人魚と同じ視点に立つのかもしれないですね。

 

人生の切り取り方って様々だと思うけれど、愛も男女も孤独も含まれていて、ほんとに凄い!!

 

www.aozora.gr.jp

 

 

RE このヒレは骨があるやつハンパねえ だからと言って祖先はカバか?(= °Д°)?

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ザトウクジラさん、どこでその顔、手に入れたんですか。

むかしむかし、まだ携帯がぱかぱかするやつだった頃、ADSLが全国に普及してなくてダイアルアップ回線もあった時代、『テキストサイト』ってあったんです。

なんだろう、ぼんさんの語りが当時の読み物を連想させるみたいで、ツボでツボで笑いました。

 

進化は謎がありますよね。絶滅ものっていうのでしょうか、絶滅した理由が残念、みたいにいじられてる生き物もいますよね。

 

恐竜は鳥って説も、出始めた頃、インパクトあったなあ。

RE 生を受け浮遊したのち降下する その一時の怖さを胸に

tanka.sblo.jp

なるほど。成層圏

バクテリアの一生のサイクルってどんな感じなんでしょうね。

彼らから人間を見ると、やたら長寿な生き物に見えたりしないかな。

作品に戻ると、「怖さを胸に」が印象に残りました。

 

以前、好きで読んでいたSFの中で、文明が知的生命体に会いに行くなりコンタクトとれるだけ発展する頃には、その知的生命体の文明が終わってるってシーンがあったのを思い出しました。

 

バクテリアも人もセミも、あるいは犬や猫も、持っている時間の流れが違うけれど、文明単位の時間の流れもありますよね。バクテリアの場合、世代交代のサイクルがとても早いけどずっと続いて、人の文明が終わっても残っていたりするのかなあ、などと思うことでした。

 

 

RE 天高く並べる雲の凹凸を 数滴が降り雨を知らせる

tanka.sblo.jp

「降ってきたね」って状況ですよね。

パラッとくるかこないか。

 

この作品はまず、遠くを描いて、次に身近な「数滴」に視点が向きますよね。

キャンバスが大きいというか、空とここという遠いけど繋がってる状態を切り取られていて、私は好きです。

 

RE 配られる手札・場次第 錯覚は まわりめぐれば一時の恋ヾ(・ω・`)

tanka.sblo.jp

なるほどなるほど。

 

ポーカーを例に、「最初からカード揃ってる、あとは何で上がるかだ」って表現をすることってありませんか。生まれた環境がいい、例えば富豪のお家に生まれるとか。

花札の手札・場と一時の恋を重ねるの、いいですねー。

 

もどかしさとか、どうにもならなさを思いました。

実際のゲームであるのなら、自分の勝てるゲームや場に移ることが可能ですけれど、恋の場合は場も手札も変更出来ないのがしんどいとこですよね。

 

「ルールおかしいだろ」って思いつつ、少しずつ手札揃えていくというか……。

 

 

 

RE 僕以外みんな灯りを点けたから星がひとつも見えなくなった

 

すごく好き。

「僕以外」がいじわるしてるわけではないけれど、結果的に主体から星を取り上げてますね。星と光害ってことと、「ぼっち」を重ねて表現されたこと、凄い。

 

主体の自意識・感受性が高いから見えなくなることもあれば、気にするしないのレベルではないことだってあるでしょう。

 

『「僕以外」という比較の対象がいるからしんどい部分』と、「主体と星だけだったら、孤独は成立するのか」って2点で、孤独とは何かを意識させられました。

 

 

比較しなければだいたい解決とか、気にするから気になるみたいに、「答え」を持ってる人や、悟った人は少ないでしょう。頭で分かるけど、しんどいし息苦しい。

 

「ぼっち」を足がかりに、「コチラ側とアチラ側」のどうにもならない溝も描いた作品に感じられるのでした。作品に戻ると、ぼっちだからこそ、星くらい見せてって気持ちになりません?

RE 愛することなんてできない 体じゅう管だらけになっても生きていて

愛と執着と呪いの境界線ってあるのでしょうか。

 

写実的な作品であるのなら、極限状態ですよね。価値観も人生観も全員違うから、正解なんてなくて、祈って見守るしか出来ない。

 

愛って言葉の扱う範囲で済ませてたまるかって、強い思いの熱量にしっくりくる言葉を探しているのかもしれない。

 

あるいは、平和な日常にいるのだけど、「これくらい強く、私はあなたに生きて欲しい・居て欲しい気持ちがある」って受け止めも出来るかなあと思うのです。

 

この作品に対して、「うん、いいよ」って約束して、約束守れることって少ないでしょう。僕らの最後って、自分ではどうにもできないものだから。だから無責任な言葉なのは理解していても、即答出来る関係性がもしあるとしたら、眩しいな。

そう考えると、僕らの言葉や愛や執着や約束って、体じゅう管だらけになる・ならない以前に、距離の近い相手を「縛る」から、僕らは目に見えない管をたくさん体につけて生きているのかもしれないですね。